初めに

人間は誰しも幸福と平和と豊かさを望んでいる。
そのためにはどんな努力も惜しまないだけの覚悟を持っている。
人間は誰しも不幸を願わず、戦争を望まず、貧困を望まない。不幸をなくそうと努力し、戦争をなくそうと努力し、貧困を解決しようと努力してきた。「平和な世界を実現しよう」と呼びかけられて反対する人は誰もいないだろう。多数決で決めて良いなら全員一致ですぐ結論が出る。

ところが、誰もが願う平和は実現せず、誰も願わない悲劇が歴史を覆ってきた。世界にどんな不思議があるといって、これ以上の不思議はない。

かつて結核は不治の病として恐れられた。あらゆる対策が何の効果も出せなかったのだ。しかし、今では、きちっと対応すれば克服できるようになり、そう恐ろしい病ではなくなった。的確に原因を突き止め、効果ある対策処方を発見すれば恐れるに足りないのだ。
今では癌と宣告されることが恐れられている。まだ、克服の方法が確立していないからだ。しかし、どんなに困難だとしても解決できないものはないだろう。やがては癌も風邪くらいになるかもしれない。

人間が戦争から抜け出せないのはどうしてだろうか。人間は何か得体の知れない病気にかかっているのだろうか。それとも平和を叫びながらその裏で戦争を好むのが人間の本質なのだろうか。とにかく人間は最も身近な存在だが、複雑怪奇で分かりにくい存在だ。

そもそも結核とは何か、癌とは何かが分からないままで、解決の糸口を見出せるはずがないように、そもそも人間とは何かを見極めずに、人間社会の問題を解決することなどできるはずがない。

幹に潜む害虫のゆえに、木が枯れることがある。ところが害虫が幹に潜んでいるからといって、幹から枯れ始めるとは限らない。現象としては幹から遠く離れた枝葉に現れることも多いのだ。そもそもの原因を突き止められなければ、どうしても痛んだ枝葉に目が奪われやすくなる。何とか枝葉の枯れるのを食い止めたとしても、根本的な解決でなければ次の瞬間には別の葉が枯れ始める。現象にとらわれることなく、そもそもの究極的な原因を突き止めて、根本から解決しない限り、真の解決とはならないのだ。

人間社会の病巣を何とか突き止めて理想的な社会を実現しようと、あらゆる種類の革命や変革や制度の変更が試みられた。いつの時代にもその時代の病巣を突き止めて根本から解決しようと果敢に挑戦した人たちは存在したのだ。何も手をこまねいて黙って見ていたわけではない。
そのような、過去の歴史の全努力を結集した結果が、現代社会の状況と言える。相変わらず、病気のままなのだ。

癌が克服されていない病気であるように、人間社会が時代を越えて患って来た人間の本質病は未解決の病気として残されているのだ。

今日の課題は、今生きている我々が責任を持って解決するしかない。過去の人達の責任にもできないし、未来の人に、ただ先送りするだけではあまりにも無責任だ。今の未解決問題に対しては、今を生きる私達が、意を決して立ち上がろうではないか。WHIはそう呼びかけたいのだ。

癌の克服はその専門家に期待したい。耐震設計はその道の専門家に期待したい。WHIは人間の本質病に対して果敢に挑戦したい。

WHIは表面的な解決を求めるのではなく、根幹の根幹にさかのぼって、究極的解決を目指している。最大のテーマは人間の存在そのものに関わる人間の本質病を見極めて究極的解決を見出したいということだ。誰かが人類社会から戦争を消滅させなければならないし、悲劇を克服しなければならないのだ。それは不可能だとあきらめるのは簡単だ。いや、簡単だろうか。決してあきらめることなどできるはずがない。癌でさえ「これは永遠に解決できない病気です」と最終結論を出して良いだろうか。誰かがそう言えば、「それなら私の生涯の研究テーマとして解決して見せます」という人物が登場するだろう。人間の本質病は癌よりも深刻なのだ。それを放っておくことなどできるはずがないのだ。

人間は好むと好まざるとに関わらず、その時代の影響や環境の影響を受けて育つ。日本に生まれた子供と、外国に生まれた子供とはそれだけで異なる影響を受けるに違いない。仏教を信ずる家庭に生まれた子供と、キリスト教を信じる家庭に生まれた子供と、無神論の家庭に生まれた子供はそれだけで異なる影響を受ける。
江戸時代に生まれた子供と、現代に生まれた子供も同じように異なる影響を受けるのだ。
中東紛争についてもユダヤ人として生まれたかそうでないかで全く異なる感じ方をするに違いない。

そのように考えてゆくと、今自分の持っている考え方や常識は、たまたま通ってきた道に限定されたものなのかもしれないのだ。
たまたま通ってきた道から受けた影響は、たまたまのものであり、確信的なものでないはずだ。しかし、人間はどうしても、思い込みに支配されやすい性質を持っている。動かし難い事実であるかのように思い込んでしまうのだ。
天動説が正しいと思い込んできた長い歴史があり、地動説を知って驚いた事実がある。今信じていることがどれほどの根拠があるかを忘れて、不動の真実であるかのように思い込んではいないだろうか。

新しい視点を確立した人たちは、今まで常識だと思われてきたことでさえ白紙に戻して考えるということをいつも余儀なくされて来た。
人生についても、全てをリセットしてもう一度ゼロから考え直してみる必要はないだろうか。人間の本質病がいつまで経っても解決できないのは、どこか視点が間違っていたからかもしれないのだ。従来の考え方を参考にしなければならないのは当然だが、それが究極の解決を提示していないなら、従来の視点を超えた観点から分析してみることも大いに必要となるはずだ。

WHIは一切の既成概念にとらわれることなく、可能な限り全てをリセットして、もう一度ゼロから見直そうとする任意団体である。NGOであり、NPOと言えるが、それは大した問題ではない。中身こそが重要である。

人間とは何か、宇宙とは何か、歴史とは何か、結婚とは何か、国家とは何か、税金とは何か・・・、大から小に至るまでの全ての問題をもう一度ゼロから見直そうでないか。身近で当たり前のように思っていることも、「その考え方に客観的根拠はあるのか」をもう一度考えてみることも大事ではないだろうか。もちろん、過去に大きな影響を与えた既成の見解も無視してはいけない。全てを整理してテーブルの上に並べてみる必要はある。だからと言って既成の考え方に悪い意味の影響を受けてもいけない。過去の単なる延長になれば、未解決の問題を解決する可能性は砕かれるからだ。

実のところ、WHIでは、相当のレベルまで掘り下げが完了していると自負している。WHIが提示する理念の深さ、広さは過去の限界を既に大幅に超えたと自負している。しかし、問題は理念だけで完成とは言えないことだ。理念は現実を動かし、事実の結果を確立してこそ真の理念となる。それには理念に賛同し、理念に確信を持ち、共通の目的を持って壮大な実験に取り組む人たちが必要となる。

第一段階として、理念そのものの完成度の高さを提示したい。関心のある人は果敢に挑戦して欲しい。もちろん、人生は忙しいし、貴重だ。途中で「これ以上研究しても意味がない」と思えば率直に言って欲しい。いや、言わなくてもいつでも中止できる。探求をやめればいいことだ。

WHIは論争を拒むものではないが、不毛の論争には興味がない。事実は論争で決着が付くのではなく、事実の結果で実証される。事実こそが最も説得力を持つのだ。アインシュタインの理論は革命的であり、今では偉大な真理として評価されているが、それも理論闘争に勝ったからではなく、実験により事実が証明されたことによるのだ。
キリスト教の理想も、共産主義の理想も、それぞれ時間をかけて壮大な実験が行われてきた。初めの段階なら理論に希望を寄せる者も多数だが、ある時間が経てば結果の事実がどうかによって影響力が変わってくる。結果こそが最も大きな説得力を持つのだ。

WHIは全く新しい視点から、コンパクトでありながら、広く、深く、美しい理念を提示する。地下鉄の中で見て来た人生を、飛行機の上から見るような感動を覚えるに違いない。もっと言えばハッブル望遠鏡を通して自分の人生を見るような印象かもしれない。
広大な宇宙空間のどこにいるのか方向感覚を失った人生に対して、くっきりとした尺度を通して明確な位置付けが可能となるに違いない。

誘拐された人間が目隠しをして連れ去られる。あるところで目隠しを外されたなら、必然的に次の疑問が湧いてくる。
一体どこからどのように連れてこられたのか、今いるここはどこなのか、今後どうするつもりなのか。

人生はあたかも誘拐された人間のようなものだ。ある日誕生して、物心ついて自分が一人の人間であることを認識し始める。目隠しを外された瞬間に該当する。一体自分はどこからどのようにして何の意味があってここにいるのかを質問しなければならないのだ。
次に何気なく過ごしている毎日だが、一体自分はどこにいて何をしているのかを求めなければならないはずだ。
最後の疑問は、「私は今後どこに連れて行かれるのだろう」であるべきなのだ。

ところが、目隠しを外されても何の質問もしない人間になってしまっていないだろうか。それで果たして良いのだろうか。聞いても答えてくれないとあっさりあきらめていないだろうか。何とかしてその疑問に対する回答を得ようと必死になるべきではないだろうか。

WHIはそもそもの根源的疑問に対して、決して逃げずに、とことん研究する姿勢を貫いている。
面倒くさいように見えても決してあきらめない。
単純に、素直に、真面目に人生をとらえたいし、最高の価値あるものにしたいと心から願っている。
WHIの挑戦に何らかの共鳴を覚える人は気軽にノックして欲しい。