人生をかける
人間は誰しも生まれた瞬間から人生をかけていることになる。癌の宣告を受けて、「お気の毒ですが、あと半年の命です」、と言われれば誰もがショックを受け、生きる日々を指折り数えることになる。今日この一日を本当に大事に生きたのだろうかと考えざるを得ない。しかし、よく考えてみれば、生まれた瞬間に、「お気の毒です。この子の寿命はあと100年ほどですよ」と初めから死の宣告を受けているのだ。いつまでも死にたくないと考えれば、不老長寿の薬を飲んででも、永遠に生きようと必死になるしかない。その欲望に比べれば100年はあまりにも短かすぎるのだ。100歳のお爺ちゃんなら、「殺すぞ」と脅されて、「ありがとうございます、是非よろしくお願いします」と答えるだろうか。「助けて下さい、まだ死にたくないのです」と言わないだろうか。
誕生の瞬間にはみんなが集まり、「おめでとうございます」と言っている。生まれた時から「ほぼ100年以内には必ず死ぬ」と分かっているのに何が違うのだろうか。残りの人生が数年以内ならお気の毒であり、それよりも長ければ、「おめでとう」なのだろうか。
「若い人はすぐには死なない」という保証があるわけではない。80歳を越えればすぐに死ぬというわけでもない。つまり、命はいつなんどきに失われるか分からないのだから、「誰もがお気の毒です」と言われなければならない運命を背負っていることになる。
とにかく、毎日の積み重ねで人生は形成される。そしてやがて終わりが来る。必死に勉強に励んでいる人も、怠惰に生きている人も、善人も、悪人もやがて一生を終えるのだ。「命がけ」という言葉は、「もっとも大事な命をかけてでも成し遂げる決意だ」ということを示している。
「かける」という意味では投資家が1000万をつぎ込んだとして、最終的に、1000万以上を回収すればそのかけは何とか成功したことになる。もちろん、金額だけでなく、労力や物資やあらゆるものも含めてつぎ込んだすべて以上を回収できれば、かけた意味があったことになる。
100万をつぎ込んで90万を回収すれば10万失ったことになる。100万をつぎ込んで150万を回収すれば50万プラスとなる。つぎ込んだ内容と回収した内容を比較してプラスが大きければ、かけた意味が大きくなり、マイナスが大きければ失敗の度合いが大きくなる。
大病を患っている人がいるとしよう。貯金は100万あったとする。医者が、あらゆる手を尽くして、「この病気を治すには、100万円が必要です」と告げたとしよう。患者が真剣に考えて、「この100万円を貯めるのに10年かかりました、そのお金を失うくらいなら病気はそのままにしておきます」と答えて、その病気の故に死んだとすれば、その選択は正しかったと言えるだろうか? かけたものと得たものの価値の大きさを比較してみなければならない。100万を病気の治療に投入すれば、100万の財産は消滅する。しかし、得るものは健康な体である。健康な体があればまた100万は生み出すことができるはずだ。結局、財産と命ではどう考えても命の方が価値が大きいはずである。つまり、財産をかけて命を得るなら、その投資は成功したことになる。命はお金に代えることができないし、どんなにお金を失っても、命だけは維持したいのが常である。それほどに命は大きな価値を持っているのだ。
ところが、その命をかけるとすれば、その代価として回収すべきものは命以上のものでなければならないはずだ。
命より大事なものがあるのだろうか。男性なら使命感かもしれない。消防士が燃え盛る火の中から幼子を救い出そうと突進し、幼子は救い出したが、本人は犠牲になったとする。そのような報道がなされれば、多くの人はその消防士の犠牲的な考え方と勇気ある行動に感動して涙を流す。「命ほど大事なものはないのに、よその子供を救おうとして自分が死んでしまうなんて何と愚かな人だろう」とは誰も言わない。
線路に落ちた人を命がけで救い出した人に対して、誰もが拍手を惜しまず、それが命の危険に切迫していればいるほど感動する。助けようとして飛び込んだ人が犠牲になったとすれば、誰もが涙を流し、その精神を称えることになる。このような一連のことは自己の命に対する危険以上に、他の人の命を大事に考えようとする愛情と表現することができる。愛の故に、自分の命を捨ててまで尽くそうとする心は、万民の感動を呼ぶ。
このような事実を分析してみると、命を投資できるほどの価値を持っているものと言えば愛情以外にないだろう。
「愛のために命をかける」の分かりやすい例は女性の生涯かもしれない。
胎内に新しい命を宿し、その命を育てるために、自分の命を常に消費しなければならない宿命を担っている。出産に関しても大変な苦痛を伴う。そのような苦労を乗り越えて新しい命を生み出す。まさしく命がけだ。「女性は弱し、されど、母は強し」と、よく聞く言葉があるが、愛する者を持つと急に強くなるということを指している。子供を持つ熊は格別にどう猛らしい。普段は逃げる程の相手にも果敢に襲い掛かるらしい。愛は命をかけさせる力を持っている。
男性もまた愛する家族を守るために日々肉体を酷使し、7人の敵が待っている社会に向かって突進する。何のために必死に働くのかと言われれば、家族を食べさせるためであると答える。これもまた愛のために命をかけていると言わざるを得ない。
消防士の例を既に述べたが、使命感に命をかけるのも、社会に対する愛に命をかけていると言い換えることができる。国境なき医師団に所属して命の危険のある地域に敢えて出かける行動もまた、愛の実践と言える。家族の生活と命のために働く行動が愛とすれば、社会に対する行動もより大きな愛として理解できる。国家に対して、世界に対して、歴史に対して愛情を抱き、そこに命をかけた人物たちは、あるいは英雄となり、偉人となり、聖人と呼ばれるようになる。銅像を残すほどの偉大な人物の仲間入りをしている。愛の大きさが大きくなればなるほど命をかける合理性が大きくなり、その価値も大きくなる。
整理してみよう。
優先順位として愛がもっとも高く、次に命であり、最後にお金あるいは財産となる。
愛し合っている男女が強盗に襲われたとして、男性が女性に向かって「愛しているけど命を失ったら元も子もないので僕は先に逃げるよ」と叫んで姿を消したとすれば、その男女の愛はその後、続くだろうか。
お金を稼ぐのは命を維持するためであり、命をかけるのは愛を守るためでなければならない。つまり、命をかけて意味があるのは愛のためでなければならないのだ。結局、人生はそのすべてをかけても惜しくないと思えるだけの愛を発見できなければ、人生をかけるという言葉そのものが空しくなるのである。
毎日儲かっている人は笑いに溢れ、心にゆとりがあり、人にも優しくできるかもしれないが、その逆に、毎日赤字の人は顔が厳しく、心にゆとりがなく、どうしても人に対してとげのある態度を取りやすくなる。儲かっているかどうかはお金だけならわかりやすいが、人生全体で考えようとすれば、所有、命、愛情の無形要素までも含めて考えなければならない。
お金を投資してもっと多くのお金を得ること、あるいは命を高めること、さらに愛を豊かにできればそのお金の使い方は最高である。お金を投入して、お金は減少したが、もっと大事な命を高め、さらに愛を高めることができればそれも良しとしなければならない。
さて、毎日、命は燃焼している。その分だけ消失していることになる。だとすれば、その焼失した分だけは、毎日投資していることになる。投資した分以上の価値を回収していれば、その一日の商売は儲かったことになるが、焼失した分よりも少ない回収なら儲からなかった一日となる。
商売と表現するのは不適切かもしれないが、卑近な例を考えてみたい。
命を燃焼させ、命を投入して、一体人間は毎日何を得ているのだろうか。投資したもの以上の価値を回収しているのだろうか。
人間は、心の奥深いところで無意識のうちに、損得を計算しているのだ。その損得において、得が多い人はいつの間にか人生が豊かになり、損が多い人は人生が空しくなるに違いない。
どんな人も毎日、その1日の命をかけないで生きることはできない。何故なら、その1日分は何がどうでも、過ぎ去ってゆくからである。
目的もなく、ただ漠然と1日を過ごした人は、そのために、貴重な命を費やしたことになる。計算するまでもなく、なんと無意味な日を過ごしたのだろうと後悔する。人は誰も、心の奥底で今日の1日の決算はプラスだったのかマイナスだったのかを計算する。その繰り返しが1年となり10年となり人生全体となる。マイナスの毎日を繰り返せば、1年の損失は大変なものとなり、生涯のマイナスは致命的となる。もし毎日がプラスなら、1年は豊かさに溢れ、その生涯では無限の財産となる。
しかし、どんな日々を送った人でも最終的には命は終わりを迎え、燃え尽きてしまう。それ以上、人生をかけることはできなくなるのだ。
毎日の決算ではなく、1年の決算でもなく、人生の決算は死の瞬間に計算され、総決算を迎える。人生をかけて一体、人間は何を得れば、その人生が意味あるものとなるのだろうか。人生最大のテーマの一つと言える大きな課題だ。
今までの論点を整理すれば生命を投資してなお、プラスになるものは愛を如何に豊かにできたかしかないという結論になる。
投資家は資金を投資して、もっと大きな資金を得ようとする。豊かな資産があれば生活が豊かになり、命が脅かされずに済むと考えるからだ。それが成功すれば投資家としてはプロと呼ばれる。
さて、親は子供に人格を投入する。ある意味では財産、命、愛情の3つを総合的に投入するのだ。これを人格投資と呼ぶことにする。
親はお金を子供に投入する。食事の費用、衣類の費用、おもちゃの費用など際限ないほどだ。母親は母乳を与え続ける。命を削って与えているのだ。寝る時間を割き、肉体の全力を振り絞って子供に尽くす。命の投資と言えるものだ。さらに、そのような行動の背後には子供に対する愛情の投資が前提となっている。持てる愛情の限りを注ごうとして、子供のために命を投入し、資金をかけるのだ。命の投入と資金の投入の動機となっている原点は、子供に対する愛情にあるのだ。
お金をつぎ込んでも、子供が成長し、命がより成熟し、充実すれば、親は失った財産を気にかけない。親の年齢が進んで残りの期間が少なくなっても、子供がそれ以上に立派に育っていれば、過ぎ去った人生も決して無駄だったとは考えない。死に際して、投入し続けてきた命が燃え尽きると同時に、持てる過去資産のすべてを遺産として後継者に与えてゆくことになる。このすべてが愛情として結実する。死によって意識が遠ざかるにおいても、立派に育った子供たちの元気な姿を見ることができれば、充実した人生だったと感謝の中で旅立ちができるのだ。
世の中には、強盗のために命をかける人がいる。テロのために命をかける人もいる。保険金を目当てに人の命を奪う人もいる。自分の命を優先して愛を裏切る事件も耳にする。優先順位をまったく無視した人生も現実には存在する。生まれた以上、人はその人生をかけるしかないのだが、かけた結果として何を得ようとしているのかが大きな問題となる。人生最終段階で、胸を張れるか、侘びしくなるか、後悔の念で押しつぶされるかは人生の在り方によって決定される。
さて、人生をかける最後の瞬間が死だとすれば、死のために生きて来たことになる。もし、死を単純に「無に帰す」と解釈すれば、人生は無のために投資されたことになる。これでは人生をかけた意味が破壊される。人生をかけてなおそれ以上の価値を得ることが人生投資の意味であるならば、死の決算において、命を超える何ものかを回収していなければならないのだ。死を単なる無と考えるだけでは論理が成立しない。人生をかけてそれ以上の何かを得るには、人生の最終段階としての死の定義を再探求しなければならないことになる。
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