存在の意味

この広大な宇宙空間の片隅に地球があり、その地球の上に60億以上の人間が住んでいる。もちろん、宇宙の初めから人間が存在したわけではない。ガス状であったか、灼熱の火の玉であったのかはともかくとして、そのような時代に生命が存在できたはずがない。
しかし、どの時点からか生命が存在するようになり、人間もまた存在するようになった。人間から人間への生命の連鎖は親と子のつながりとして私達は常に目撃することができる。親から子供が生まれて生命の連鎖が行われる事実を現実において確認することができるのだ。

さて、そのような客観的事実はともかくとして、果たして、そのような人間という存在に何らかの意味があるのかについて考えてみよう。

既に述べたが、宇宙の広大さは想像のしようもないくらいだ。その広大さに比べれば人間などウイルスにも満たない存在となる。さらに、たかだか100年の寿命を考えてみても、数億年単位で流れる宇宙の営みから見れば、カゲロウのようにはかない存在である。空間的に見ても、時間的に見ても、人間の存在に何かの意味を見出すことは困難に見える。宇宙に漂うごみのようにも見えるのだ。
ここで思い切って断言してみよう。「人間の存在に意味などないし、価値などあるはずもない。したがって人生は無意味である。」と。

さて、この結論が正しければ、殺人も、裏切りも、戦争も許されることになる。無価値なものなら、消滅したからと言って悲しむ必要もなければ、抗議する必要もないからだ。
意味のあるものは保管しておきたいが、無意味なものは片づけてしまいたいのが人情である。
基本的人権という単語も死語となる。無価値で無意味なものに何の権利があるだろうか。

さて、人間の心の反応を分析してみよう。誰も、大事にされればうれしいが、人間扱いされなければ悲しみ、怒り、抵抗する。それは誰もが自分の存在に対して、「かけがえのない価値を認めて欲しい」と叫んでいる自分を発見するのである。もちろん、自分の価値を認めるなら他人の価値も認めなければならない。

次に「人間の存在には何らかの価値がある」と前提して話を進めてみよう。

分かりやすくするために卑近な例を挙げてみよう。
目には意味があるだろうか。目はあってもなくてもよいものなのだろうか。こう言われれば誰もが、目がなければ見ることができず、大変なことになる。目には明確な目的があり、意味があり、価値があると断言する。
では、目についてさらに分析してみよう。目はどのようにして形成されるだろうか。受精卵の細胞分裂のプロセスの中で、いつの間にか目が形成されてゆくことは誰もが知っている。さて、羊水の中で目が形成されてゆくとき、まだ目はその機能を発揮していない。もちろん、羊水の中で何かを見る必要はないのだから、明らかに目は誕生後に必要性があることを前提として準備されていることは明白だ。瞼が準備されていることもそのことを明らかにしている。海中で暮らす魚は常に水に接しているために瞼は不要だ。目が乾燥することはありえないからだ。しかし、陸上で生活するなら話は別だ。目を開けたままでは乾燥を避けることはできず、目には大変な障害となる。だから断続的に瞬きをすることにより眼球の表面に水分を補給する必要があるのだ。
そのために保護する目的で瞼が必要となるのだ。

意識もない赤ん坊自身が目の必要性を認識することは不可能であり、だからと言って親が目を設計するわけでもない。当人でもなく、親でもない、何者かがやがて目が必要になるという事実を認識していることになる。
細胞分裂を繰り返しながら徐々に目の完成に向けて発達して行く事実を見れば、まだ影も形もない段階から、この細胞は目に向けて発達させなければならないという明確な意志が作用していることになる。目の完成像のイメージが最初の時点でくっきりとしていなければならないことになるのだ。

目には重要な意味があり、また価値がある。そしてその意味や価値は、目の存在理由としての目的に根拠を置いている。その目的に一致していれば、価値として評価されることになる。
まず、目的があればこそ、目的に向かってのプロセスが生じ、その完成がある。そしてその存在が存在目的に一致している限り価値ある存在と認識される。

胎児の成長プロセスにおいて、目が生じ、耳が生じ、手足が生じるのは、偶然の産物でも確率の産物でもない。明確な目的に向かって突き進む目的現象として理解しなければならない。そして、その目的は全てのプロセスに先立って存在しなければならない。目的が起点であり、存在は結果である。結果の価値は動機としての目的に一致しているかどうかである。

見えない目は価値がないし、聞こえない耳は無意味である。しかし、目は聞こえないからと言って非難されないし、耳は見えないからと言って非難されることはない。それは存在の動機である目的によってそれぞれの価値は異なるからである。

さて、目や耳や手足の総合体である人間は何故に人間として存在するようになったのだろうか?
人間の存在に明確な目的があるなら、その目的は人間が存在した後に定められるはずがない。存在の前に定まっていなければならないはずだ。その目的に合致するように全てのプロセスは方向付けられなければならないからだ。
つまり、人間は人間が必要だから誕生したのではなく、何者かに必要とされて生み出されたとしか考えることができない。目自身が目を必要としたから目ができたのではなく、目以外の何者かによって必要とされて形成されたのと同じ論理だ。

同じ論理を宇宙全てに適用してみよう。花はなぜ存在しているのだろう。花は花が必要としてではなく何者かによって必要とされて登場するようになったに違いない。太陽はなぜ存在しているのだろう。宇宙はなぜ存在しているのだろう。同じ論理が適用される。

宇宙全てに何らかの目的があるとすれば、その目的は全ての存在に先立って存在しなければならないことになる。目的は意志によってもたらされるものである。意志のない存在が目的を持つことはありえない。

宇宙の全てのプロセスに先立って一つの意志が存在しなければならないことが大きな結論となってくる。その意志を宇宙意志と名付けることにしよう。
釈尊が主張した仏、孔子の主張した天、イエスやマホメットが主張した神と共通する存在に違いない。人に人格があるように、宇宙にも人格があってもおかしくはない。宇宙人格と呼ぶことにしよう。

 


さて、宇宙人格は何を目的として宇宙を生み出し、人間を生み出したのだろうか?

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